防災・減災への指針 一人一話

2013年12月02日
店舗におけるお客様の安全確保策
パチンコひまわり 多賀城店長
山田 睦基さん
パチンコひまわり 店長代理(元主任)
佐藤 泰弘さん

発災時に見られたお客様同士の一体感

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、当時の役割や市民との関わりを教えて頂けますか。

(山田様)
発災直後は根室で勤務しており、テレビでしか震災の様子を見ていませんでした。多賀城市で、災害の様子を目の当たりにするまでは何もわかりませんでした。
私が来た時には、車があちらこちらに引っくり返っている状態でしたし、引っ越してきた場所は、浸水して電気も使えなくなっていました。震災を受けて、皆さんは本当に苦労されているのだという印象を受けました。
しかし、ひまわり多賀城店に通って頂いたお様は、予想以上に復興にかける気持ちが強く、元気な様子で、かえって私の方が元気を頂いたくらい、やる気に満ち溢れていました。
震災が起こった時には、お互いに手を取り合って助け合おうという一体感を非常に強く感じました。
震災当時は、従業員がボランティア活動を実施しておりました。
ボランティアに参加されていた方の中には、パチンコには興味がない方もいらっしゃいましたが、店舗が復旧した後に、わざわざ挨拶にいらしてくださった方も沢山いました。
多賀城は津波が起こった場所ですので、営業をしていいのだろうかと思いましたが、震災から3か月後に再開させて頂きました。ここの駐車場にいたから助かった人もいましたが、この辺りで亡くなった人もいるので、花を置かせてくださいと沢山の市民の方が来られました。
それが、非常に印象に残っています。

(聞き手)
こちらに来てからの役割は、指揮を執る事だったと思いますが、指揮を執るために、どういったお仕事をされたのでしょうか。

(山田様)
自分で言うのも恥ずかしいのですが、私自身とてもポジティブな考えを持っているので、「とにかく今は前を向いて、元気に活動していくしかないでしょう」と皆に言っていました。その繰り返しが主な仕事でした。とにかく皆に笑顔で元気を振りまくことが一番の仕事だと思っています。

「コミュニティの場」を提供するという考え方

(聞き手)
被災した場所で、再び営業を再開されて、皆さんの反応はいかがでしたか。

(山田様)
正直、パチンコ店に対する風当たりは厳しかったです。こんな時に、なぜお金を取ろうとするのだという声ももちろんありました。
しかし、多賀城市の町前地区で明かりをつけていたのは私たちの店ぐらいで、他の施設は閉まっていました。暗い雰囲気になるのであれば、店を開けて明るくし、お様同士の交流や、人との再会の場所になるような場所にしようと考えていました。
また、辛い経験をされた方にとってはパチンコが一時の癒しになれば幸いだと思いました。
商売を目的に考えるのではなく、コミュニティという娯楽を提供する場にしたかっただけです。

(佐藤様)
地震が発生した直後、私は仕事が早番だったので、店内にいました。そしてお昼頃に、ちょうど地震が発生しました。前々日にも震度5強くらいの地震が起こったと記憶しております。思った以上に揺れが強かったので警戒していました。ですから、大きな地震が起きた場面を想定して、誰がどこに避難させるかある程度練習しておりました。
そのため、事前準備は出来ていると思っていたのですが、実際には、予想を遥かに超えた大きさの地震でした。お様は逃げるというよりも、もう動けないという状態の方が多くて、従業員も誘導するのに大分時間が掛かりました。店には、責任者である主任が私1人だけでしたので、お様を避難させないといけませんし、従業員の安全も確保しないといけなかったので、とにかく冷静になって必死に対応しておりました。

(聞き手)
店内の様子はどうだったのでしょうか。

(佐藤様)
震災前は、店の天井にアドバルーンを付けておりましたが、地震が来て、倒れたお様などに落ちてきて怪我をさせたら大変だと思い、すべて排除しておりました。
また、アンカーを打って、揺れが起きても、お様が怪我をしないような状態を以前から作っておりました。ですから、実際に震災が起きた時は、パチンコの玉が多少散らばる程度で済みました。

お客様と一緒の避難

(聞き手)
様と従業員の方を外に誘導したのですか。

(佐藤様)
一度外に出て、地震が収まったらまた中に戻って来てといった繰り返しをしていました。

(聞き手)
その時の皆さんの様子は、どのようなものだったのでしょうか。

(佐藤様)
一度家に帰りたいというお様がとても多かったです。後は、この店が営業出来るのか聞かれるお様が沢山おりました。今まで停電などは経験していましたが、外の状況を見ると信号が止まって渋滞していましたし、産業道路は陥没していましたので、その日の復旧は難しいと思いました。それをお様に説明して、そのまま帰られる方もいらっしゃいましたし、ちょっと様子を見て残る方もいらっしゃいました。

(聞き手)
津波がその後来ましたが、その時の様子はどうでしたか。また、津波が来るという事を、どのように知りましたか。

(佐藤様)
震災当日は、事情を説明してから店を閉め、お様は従業員と一緒に外で待機してもらいました。
ちょうどラジオを持っていたので、そこから津波が来るという情報を得ました。
しかし、津波が本当に来るのか疑問で、あまり焦りはありませんでした。
ただ、当時の店長代理から念の為、高い場所へ上がった方がいいだろうと指示がありましたので、皆で立体駐車場の屋上に上がることにしました。屋上からは、産業道路側のフェリー埠頭が見えました。
その方角を見ていたら、ちょうど、大きなトラックがコンビニ付近を走っているところが見えました。
その時、普通ならUターンして戻るところを車がバックして戻る姿が見えたので、少し奇妙だと思っていました。
よく見てみると車がバックしている訳ではなくて、流されて戻って来ていたのです。
そこで、初めて津波が来るという事を自覚しました。立体駐車場の車の中にいるお様は全く気が付いていないので、皆で危険が迫っていると叫びました。駐車場の1階は危険なので、車で上がるように誘導して避難させました。

(聞き手)
その後、お店にも津波が来たと思いますが、その時の様子はいかがでしたか。

(佐藤様)
実際に津波が来た時は、皆で立体駐車場の屋上からその様子を見ていました。渋滞している車や、逃げられずにいる人、何人か走って逃げている人も見ました。赤ん坊を連れている女性もいたのですが、目の当たりにしていながら、助けることも出来ませんでした。他の従業員もそんな光景を見ていたと思いますが、経験したこともない事で誰も声を出せないような状況でした。

(聞き手)
その日は、立体駐車場の屋上にとどまっていたのでしょうか。

(佐藤様)
そうですね。立体駐車場も水が引いていないので、そのまま残るしかありませんでした。その後、駐車場の3階に皆を集めました。お様の中には車で上がって来られた方もいらっしゃったので、その人たちにお願いして、車の中にいれていただき、水に浸かったお様たちに暖を取らせて頂きました。交互に暖を取っていましたが、水が引くと、その他の方たちも集まって来ました。暖房が足りなくなってしまったので、急遽、たき火をして暖を取るなど工夫しておりました。
翌朝の5時頃までそこで待機していたら、自衛隊の方が救助に来てくださいました。

(聞き手)
震災前の備えや対策は、どのようなものだったのでしょうか。

(山田様)
私は北海道の根室に居ましたが、そこも地震が頻繁にありました。そのため、役職者から従業員への連絡網を作っていました。しかし、備蓄していた物資はありませんでしたし、行政との繋がりもありませんでした。

(聞き手)
 東日本大震災以前に、何かしらの震災を経験した事はございますか。

(山田様)
いいえ。しかし、根室も30年以内に、震度5~7くらいの地震が起こるのではないかと言われていたので、いつでも警戒はしていました。しかし、実際に災害が起きた時にどのように行動すればいいのかなど、そこまでは考えていませんでした。

社用車を利用した物資の備蓄

(聞き手)
震災を経験して、その後、備えたものなどはありますか。

(山田様)
多賀城市に来たのは災害が起きた後でしたので、今までの考えが甘かったと思い知らされました。ですから、震災時、必要だった備蓄物はすべて買い揃えました。会社の車が屋上にありますが、その社有車に備蓄物を保管して、お様にいつでも提供出来るように備えました。
それから、携帯電話はメールを送ってもサーバがパンクして送れないという話を聞きました。
今、スマートフォンではLINEなどが流行っていますが、それなら繋がるとわかったので、各従業員に安否確認をする時にはLINEを使って連絡を取るようにしています。

(聞き手)
避難訓練の実施状況はどうですか。

(山田様)
避難訓練は年に2回実施しております。リアリティを追及するために、最初に細かい手順を教えてから行います。皆とても真剣に取り組みます。従業員と役職者で連携を取り、多賀城消防署の方にも来て頂いて訓練を実施しております。

(佐藤様)
震災前には、停電が起きた時に備えて懐中電灯を用意していました。それを常に確認するくらいで、備蓄物や食糧まで考える意識はありませんでした。
過去の災害経験は、小さい頃、自宅近くに川が流れていたのですが、そこが氾濫する事が多くありました。
また、水道が出なくなる事がよくありました。それで、風呂によく水を溜めていました。
その癖がついていたので地震が起こった日も溜めていました。
そのため、トイレの水を流れなくてもお風呂の水が使えましたし、同じアパートの方に水を分けてあげることもできました。皆に喜ばれたので、良かったと思いました。
後は、常に家の中に靴を置くようにしていました。それは実際に経験している訳ではありませんが、テレビで、ガラスが割れて素足で出られなくなるパターンをよく見ていたためです。

悲しい記憶は印象に残る

(聞き手)
 東日本大震災以外でも構いませんので、何か震災に関して印象に残っている出来事はございますか。

(佐藤様)
地震の名前は忘れましたが、秋田県の男鹿半島で幼稚園児20人ほどが津波にのまれたという話を聞いたことがあります。
自分が生まれる前なので、もう25年くらい昔になります。
小学校の先生や校長先生が、毎回必ずそのお話をしていらっしゃいました。津波に一瞬でのまれて子どもが亡くなったというお話は、やはり印象に残っています。

(聞き手)
 発災当時、うれしかったこと、また、残念に思ったことは何ですか。

(山田様)
うれしかったことは、震災が起こった翌日に、北海道の本部から陸路を使って備蓄物や物資を大量に運び、また、青森や秋田などの店舗からはガソリンも缶に詰めて、どこの企業よりも早く届けられた事です。
会社のフットワークの軽さに驚きました。北海道は災害の多い地域だけあって、そういう備えがきちんとなされていましたので、それにも感心しました。
逆に残念に思ったのは、震災時に私はその場におりませんでしたので、その時一緒に居て、気持ちを共有したかったと思うことです。
しかし、「来てくれてありがとう」とお様に声を掛けて頂いた事もあったので、それは嬉しく思いました。
これは震災と影響があるのかわかりませんが、当時の都知事が「こんなご時世にパチンコ屋はネオンをキラキラさせている」というような発言をしていました。
先ほどお話したように、この辺りで照明を点けられる場所が私たちの店しかなかったので、お様に「何もないけれど明るい光はある」と伝えたい思いがありました。しかし、その発言があったため、電気を消すしかありませんでした。それが残念でした。
パチンコ店の中にも色々な考えを持つ企業があります。
そして、震災復興で他県から応援に来る人たちはお金を持ってきます。
震災後はパチンコくらいしか娯楽がありませんでしたので、そういう人から、いくらでも利益を取ろうとしているパチンコ店が多くありました。
私たちの社長はそのような方針ではなく、明るさや元気を皆さんに提供したいとの信念を持っていました。
ですが、営利のみを目的とした企業と同じように言われたので、切ない思いもしましたが、私たちはお様を多少なりとも喜ばせる事が出来たので良かったと思います。

安否確認用としてLINEを活用

(聞き手)
 今回の震災で、防災マニュアルの見直しなどはありましたか。

(山田様)
本社の経営企画部が従来作成していたマニュアルを私達が先導する形で全面的に見直しました。震度5以上の揺れが起こった時はどこに連絡をするとか、各自で備蓄物をどこまで準備しておくとか、避難場所はどこで見られるかなど、30ページくらいのマニュアル本になりました。ただ、実際にそれだけの規模の震災が来るかどうかは未知数なので、活かせるかはわかりません。現在でも活かされていると思うのは、LINEです。それを活用して、多賀城ひまわり災害用というボックスを作り、従業員の安否の確認をしています。また、各自に連絡先や連絡網を渡しています。

(聞き手)
 防災対策にも取り組んでいらっしゃると思いますが、その中で問題や課題は出てきましたか。

(山田様)
人間ですから、年々気持ちが薄れていくと思います。震災から2年半経過していますが、私はこちらに居る事もあり、当時の話を振り返る機会が多いです。ですが会議などで北海道に行くと、社内の人間はともかく、周囲の人の中では震災の話は過去の出来事として忘れられてきていると感じました。東北各地は大きな被害を受けたので、その他の地域でも震災が起こる可能性が高いと思います。
ですが、震災で受けた事が心の中から抜けてしまい、防災訓練などを真剣に取り組まなくなるのは、少し問題なのではないでしょうか。
震災時に屋上で一晩を過ごした従業員は、今では半分もいません。それ以外の人は転勤や退職をしております。ですから、現在いる人たちだけで過去の歴史を伝えていけるのかが、今後の課題だと思っています。

(聞き手)
発災当時の対応で良かったと思う事と、反省点だと感じた事についてお聞かせください。

(佐藤様)
震災の前日に、災害が起こった時のシミュレーションをしていたので、結果的に良かったと思う事はあります。お様が外に出やすいように、従業員がドアを自動から手動に変えて、ぶつからないように配慮していました。そこは連携がしっかりしていて、事前に予測出来たからだと思います。
しかし、お様に従業員が判断出来ないような事を聞かれた時などは、的確な回答をすることができませんでした。ですから、ある程度そういう事態を想定した対応方法を指導していれば、また変わっていたのかなと思いました。

(聞き手)
お店にいたお様は、全員、屋上に逃げて無事だったのですか。

(佐藤様)
全員無事でした。中には、地震が起こって、すぐに帰られたお様もおりましたが、最後まで残られたお様は私たちと一緒だったので、皆で避難しました。

発災時における従業員の対応

(聞き手)
 従業員の方たちは、どのような対応をされていたのでしょうか。

(佐藤様)
地震が起こった時、安否確認用の連絡網を作っていました。
実際に震災が起きた日は、従業員と私を入れて7人くらいでお様200人ほどの対応をしたのですが、どうしても対応が間に合いませんでした。
その時、その日の遅番の者や役職員が全て店に来てくれました。そのおかげで、お様への対応がスムーズに運びました。
何かあったから店に駆けつけた訳ではなくて、安否確認が取れなかったので店に来てくれたのです。
ですから、マニュアルという訳ではありませんが、連絡網を作っていて良かったなと思う事はあります。あのメンバーがいなかったら、津波の事を全然考えられていませんし、恐らくラジオも聞く時間がなかったと思います。皆が駆けつけてくれたので、今があると思います。

震災経験者と未経験者が混在していても対応できるマニュアル

(聞き手)
 マニュアルは何を重視して作るべきだとお考えですか。

(佐藤様)
先ほど店長からもお話があったと思いますが、その当時いたメンバーの人たちが居なくなっている状態です。震災を経験してから、それを想定した避難訓練や練習をしましたが、実際にその場面に遭遇した時には、もっと違う練習もしておけば良かったと思う事が多くありました。ですから、現在いるメンバーたちと新しく入って来た人たちが、緊急を要する場面に遭遇した時に、困らないような状況だけは作っておきたいと思いました。しかし、そうなると、マニュアルはあらゆる事態を想定して作らないといけないので、とても大変かもしれません。

(聞き手)
津波の想定は、マニュアル上ではしていたのでしょうか。

(佐藤様)
想定していませんでした。震災当時は、独自の判断で対応しました。

(聞き手)
 多賀城市の復旧・復興に向けての考えをお聞かせください。

(山田様)
私が多賀城市に来る前から、ニュースで多賀城市や石巻市が多く放送されていたので、その名前が全国区に知れ渡りました。
震災で有名になった多賀城市が5年~10年経った時に、過去よりも元気な姿を日本に見せる事が出来たら、またどこかの地域で同じような災害が起きた場合に、多賀城市があれだけ大きな被害を受けたのに、こんなに元気になれるのだという希望を与えられるはずです。過去からさらに前進した多賀城市の姿を見せられれば良いでしょう。
また、最近ではとても大きなパワーを感じる事があります。震災前よりも、飲食店などのお店が数多く増えたというお話を聞きました。これだけ多くの商業施設が建って沢山の人が飛び交う町なので、観光を含めて、どんどんこの地に足を向けて頂いて、今はこれだけ復活したという姿を見て頂きたいです。それから、様々な企業が来て多賀城市に住む市民が増えれば、もっと活気づいてにぎやかになると思います。多賀城市のパチンコ店店長をしている立場としては、元気とコミュニティを与える存在として、活気のある店作りをしながら、多賀城市の復興に少しでも役に立てればいいと思っています。

(聞き手)
復旧、復興のために、ボランティアに行かれたというお話を伺いましたが、その経緯を教えて頂けますか。

(山田様)
私たちの店は、震災後に開店するまで期間がありました。そして、従業員の安否も全員確認がとれていて、会社の方針で、全従業員の雇用を継続するという事も決まっていました。会社の企業理念に「おさまの喜びは社員の幸せを追求し続けます」とあり、その下に「私たちは創業の精神である、町に元気を、人々に元気を」という言葉があります。さらに「今回、このような事態になりましたので、人々に元気を与えましょう」という社長の号令がありました。そして、多賀城市で何をするべきかと考えた時に、苦労されている人たちが沢山いるので、その人たちの役に立つ事を目的にボランティアを実施しました。

コミュニティの場を提供する

(聞き手)
 震災後のお様の様子はどのようなものでしょうか。

(佐藤様)
現在は、大半のお様が遊びの目的でいらっしゃいますが、中には従業員とお話をするだけのお様もいらっしゃいます。多分、話すことで心が安らぐのではないかと思います。皆さんにコミュニティの場を提供し少しでも元気になって頂いて、それを復興活動の糧にして頂けたら有難く思います。後は、立体駐車場が避難指定ビルになっているので、水害で増水した時に、こちらに停めてもいいですかと私たちの店を頼って来られて、とても嬉しかった事がありました。地域の貢献として今後も続けていく事で、良い方向へ向かうのではないでしょうか。地震が起きた時は、ひまわり多賀城店に勤めて半年の頃でした。震災前は、近隣のお様と直接お話しする機会はほとんどありませんでしたが、地震が来てから、お様や近くの住民の方とお話しする機会が増えました。

記憶を風化させない自発的な行動

(聞き手)
 震災の経験や記憶の風化が叫ばれていますが、風化させないためには、何が重要だとお思いでしょうか。

(山田様)
この震災を経験した人たち皆に責務があると思うので、危機感がなくなってきた時はそれぞれに声を掛け合って、危機感が薄れているのではないかとか、防災のこれは用意しておこうなど、声を大にして一生涯伝えていく事が大事だと思っています。被害を受ける前に対応する大切さや、備蓄品の買い替えなどを行っていく重要性は十分に理解していますので、被災経験のない人が来た場合でも、また津波などの被害が起こるかもしれないという危機感を伝え続けていこうと思っています。

(聞き手)
個人的な意見としてはいかがでしょうか。

(山田様)
余談になるかもしれませんが、今年、東北楽天イーグルスが優勝して、星野監督が涙を流しながら「とにかく出来る事は野球だ」とおっしゃっていました。その感動する姿を見たら、媒体は違いますが、どんなものでも皆に元気を与えられるのだと勉強になりました。私はパチンコ店の店長として、立体駐車場を使って、人を救う事が出来ますし、何かあれば団体行動をとって、皆で助け合っていきましょうという事を伝えられる一員になりたいと思っています。

(聞き手)
 これまでの質問以外で、伝えておきたい事はございますか。

(山田様)
根室から多賀城市に行ってくれと言われた時は、とまどいました。普段から、突然辞令を受ける事はありましたが、多賀城市に来ることになるとは考えてもいませんでした。「多賀城市のお店を復活させるので、行ってください」と言われた時は、正直冗談を言っているのかと思いました。その後、私の妻や親戚の人たちを説得するのがなかなか厳しかったのですが、今考えてみると、これで良かったのだと思っています。
私は震災後に多賀城に来ましたが、被災して苦労した人たちと一緒に復興活動を進めて、色々なお話を聞く事が出来たので、自分の人生にも確実にプラスになりました。
先ほどお話した内容と前後しますが、被災した貴重な体験を糧にして、多賀城市が発展していくお手伝いが出来たら幸いです。
東日本大震災であれだけ大きな被害を受けても、ここまで復活出来るのだというところでは、多賀城市は他にパワーを与えることに繋がったことでしょう。今後も多くのパワーを与え続ける多賀城市の一員として、前向きに活動していこうと考えています。

(聞き手)
 後世に向けて残したい事はございますか。

(佐藤様)
先ほどお話しましたが、多賀城市に来て半年くらいで地震に遭遇しました。よく考えると、こちらに来なければ被災経験もしなかった訳です。ですから震災を経験して、避難訓練の大切さや、伝えていく事の重要性を自分の中で認識出来たと思っています。今後転勤して別の地域に行った時に、考え方の温度差が出てくると思いますが、経験を活かして、生の声を伝え続けていこうと思います。

(聞き手)
個人的な意見としてはいかがでしょうか。何か教訓として伝えていきたい事はありますか。

(佐藤様)
教訓ではありませんが、地震が起こって以来続けている事が1つあります。去年の12月頃に、テレビ放送で『あの日を忘れない』という番組がありました。そして、その番組を録画に撮って持っているのですが、その中に、当時の津波映像が映し出されていました。最後に家族の写真が出てくるのですが、家族の人たちは全員亡くなって、その中で1人だけ生き残ったという出来事を放送していました。私は、それを月に1回必ず見るようにしています。やはり被災の経験をしても、自分の中でその意識が薄れていく感じがあるので、避難訓練などが近くなると、そのビデオを見ながら、今一度自分の中で意識を少し強くするようにしています。それは今でも続けています。その映像を見ると必ず泣いてしまいますが、継続していく事で意識が保たれています。